香撰堂本舗 / ワンランク上の味わいを食卓に、静岡産100%深蒸茶匠、特許取得の備長炭入り炭火焙煎茶

改・でしゃばり雑学

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茶に関する(効果効能や生活に役立つ)様ざまな雑学情報を発信しています。
刊行物スポット掲載の「でしゃばり雑学」と旧web版の「新・でしゃばり雑学」をひとつに「改」めました。

No.201  栂尾茶とは?

栂尾山=とがのおちゃ
鎌倉初期、栄西が宋から茶種を持って帰国(1191年)し、これを明恵(みょうえ)上人に贈っりました。上人はこれを京都市右京区の栂尾山に植え、その後、宇治やその他の土地に移し植えられました。栂尾に植えられた「栂尾茶」が天下一の茶「本茶(それ以外のお茶を「非茶」)といわれ、天皇への献茶が毎年行なわれました。
また明恵上人が創建(再興)したお寺で、世界文化遺産にも登録されています。『高山寺(こうさんじ)』は日本茶発祥の地ともいわれ日本最古の茶園があることでも知られています。

栄西=日本臨済宗の祖。はじめ比叡山で天台密教を学んだ。二度宋(そう)に渡って禅を学び、帰国後、博多に聖福寺、京都に建仁寺、鎌倉に寿福寺を建立。また、宋から茶の種を持ち帰り、栽培法を広めた。著「興禅護国論」「喫茶養生記」など。千光国師。葉上房。ようさい。・・・ 国語辞典百科事

No.202  闘茶とは?

闘茶(とうちゃ)とは、茶の点て方や、茶を飲んで香りや味から産地を推測するなどして、勝敗を競う遊び。中世~近世に流行した。日本では回茶、飲茶勝負、茶寄合、茶湯勝負、貢茶などとも呼ばれ、現代でも茶の産地を鑑定する「茶歌舞伎」が行われている。中国では茗茶、銘闘などの異名がある。中国の唐代に始まって宋代に発展したと考えられているが、日本に伝来後は中国・日本ともにそれぞれ独自の形式を確立させた。

日本において本格的に喫茶が行われるようになったのは、鎌倉時代に入ってからである。闘茶の最も早い例の一つとしては、鎌倉時代最末期『花園院宸記』元亨四年十一月朔日条(1324年11月18日)に記される、後醍醐天皇の無礼講で開催された茶会がおそらく闘茶であると考えられる。闘茶であると明言された確実な史料上の初見は、その8年後の『光厳天皇宸記』正慶元年6月5日(1332年6月28日)条で、光厳天皇が廷臣たちと「飲茶勝負」を行ったことが記されている部分である。また、『太平記』には、佐々木道誉が莫大な景品を賭けて「百服茶」を開いたことが記されている。こうした流行に対して「群飲逸遊」という倫理面での批判や闘茶に金品などの賭け事が絡んだこともあり、建武政権時代の二条河原落首では闘茶の流行が批判され、『建武式目』にも茶寄合(闘茶)禁止令が出されているほどである。

闘茶の方法には複数あり、当初は本茶と非茶を二者択一で選択する単純なものであった。後に宇治の茶の質が向上して宇治茶が栂尾茶と並んで本茶として扱われるようになり、その方法も複雑化していった。闘茶の全盛期であった南北朝時代から室町時代初期にかけて最も盛んに行われたのが、四種十服茶(ししゅじつぷくちゃ)であった。これは、種茶と呼ばれる3種類と客茶と呼ばれる1種類の計4種類を用いるもので、まず種茶を点てた3つに「一ノ茶」「二ノ茶」「三ノ茶」と命名して、参加者にそれぞれ試飲させて味と香りを確認させる。次に種茶3種類からそれぞれ3つの袋、試飲に出さなかった客茶1種類から1つの袋の合計10袋の茶袋を作り、そこから点てた10服分の茶を順不同に参加者に提供してこれを飲ませる。参加者は10服の茶が最初に試飲した「一ノ茶」「二ノ茶」「三ノ茶」のうちのどれと同じものか、はたまた客茶であるかを回答し、その正解が最も多いものが勝者となる。時にはこれを複数回行う場合もあり、前述の佐々木道誉の「百服茶」(「百種茶」とも)とは10回分の勝負を行った(10服×10回=100服)もので、こうした大規模なものになると夜を徹することもあったという。これ以外にも闘茶の方法として「二種四服茶」「四季茶」「釣茶」「六色茶」「系図茶」「源氏茶」などがあった。

だが、東山文化へと移行していく15世紀中頃からこうした闘茶は衰退の様相を見せ、更に村田珠光、武野紹鴎、千利休によって侘び茶が形成されていくと、闘茶は享楽的な娯楽・賭博として茶道から排除されるようになっていった。それでも、闘茶は歌舞伎者らによって歌舞伎茶(茶歌舞伎)として愛好され続け、また侘び茶側でも茶の違いを知るための鍛錬の一環として闘茶を見直す動きが現れた。17世紀に作成された『千家七事式』には「茶カフキ」として取り上げられて闘茶も茶道の一部として編入されることとなった。現代の茶歌舞伎では、出された5種類の茶に対して一杯ずつ産地を回答することを求められ、後で訂正できないルールである。
また群馬県中之条町には「白久保のお茶講」の習俗が残り、国の重要無形民俗文化財に指定されている。

No.203  茶歌舞伎とは?

千家七事式(しちじしき)の一つ。その起源は闘茶(とうちゃ)であったが、精神性を高揚する草庵(そうあん)茶がおこり、闘茶の残滓(ざんし)としてのかぶき茶を千宗旦(せんのそうたん)が禁止することによってとだえた。その後、七事式の制定とともにふたたび取り上げられて現在に伝えられているのである。遊び方の基本は闘茶と同様で、3種の茶を五服飲み、その味を飲み分けるものである。

No.204  七事式(しちじしき)とは?

禅語に七事随身の言葉があり、禅僧が常に身に携えている、三衣・一鉢・香合・払子・浴具・尼師檀(座具)・紙被 のことで、茶道では、懐紙・袱紗・扇子の三具で、それがちゃんと身についていて、ある時は、扇子を前に置き、自らを現わし、ある時は袱紗にて棗、茶杓を拭きます。すでに水屋にてあらためられている道具を、更に点前にて拭いて清めます。わたし達は払拭をもととします。常にその行為で自らを払い拭いていくのです。これが茶道を学ぶ根本なのです。
流祖川上不白とその師、表千家七代如心斎宗匠は、茶は草庵茶室で一部茶人のみの楽しみとはせず、広く求めるようになり、草庵から広間へと茶道の改革に取り組み、お互いが切磋琢磨して茶道の精神と技を磨き、しっかと身につくようにと考案されたものが七事式です。
茶道は、花を生け、香を焚き、濃茶を点て、薄茶を点てていきます。客となり、ある時は亭主となり、その時、その場に従って随所に主となり客となる茶力を養っていかねばなりません。七事はそのための式なのです。流祖は、七事こそ流の宝と申されました。不白筆記の中で、「師と共に昼夜これを論ず」と、七事式の花月ひとつとっても、完成には十数余年の歳月がかけられ、その苦労がうかがわれます。

花 月・・・流祖不白と師の如心斎が考案したもので、七事式中最も変化に富むものです。通常は五人で行い、花月札を用いて「花」に当たった人が茶を点て、「月」に当たった人が茶を喫していきます。茶道に対して臨機応変に対できるよう学ぶところにこの式の目的があり、熟練を積まねばなかなか理解できません。その時々により的確に判断し、滞りなく進めていきます。濃茶付・花付・炭付花月等応用があります。

且 座・・・且座とは、臨済宗の宗祖臨済義玄の語録を集録した「臨済禄」の「且座喫茶」からとったもので、禅語を名称にしたものです。「しゃざ」もしくは「さざ」と読みます。折居で役割を決め、花が東、月が半東、一客が花生け、二客が炭、三客が香と、五役を定め、半東が諸々の準備を整え進行します東が濃茶を点て、半東が薄茶を点てます。

廻り炭・・・炉の季節に限って行われます。客一同炉辺に寄り、主客ともに各自思い思いの炭をつぎ、嫌い炭(丁字、帆かけ、十字、重ね)をさけ、一巡は限らず留炭がかかるまで炭の変化を楽しみます。

茶カフキ・・・茶カフキは闘茶より考案され、「茶カブキ」と言います。試茶二服、本茶三服を棗に入れ五ツとし、長盆にのせ棚に飾り、試茶をもとに本茶を飲み当てます。当日使用する茶銘、茶舗を掛板に書いておきます。水屋にて折居で東と執筆者を決めておきます。

廻り花・・・四季折々の花を生け花の自然を楽しむと共に、茶花の生け方の勉強をするもので、数種類の花を巧みに生け変えたり、前の人の花を生けかえず、一枝添えて花の風情を加えたり、一巡とは限らず「どうぞお水にてお留め下さい」の声が掛かるまで致します。

一二三・・・東の点前(濃茶)を連客が評価するもので、点前を行ったあと、札を打ち採点します。札を打つ人は、公正に私情を入れず厳格に行います。点前の向上の為に役立てられます。宗匠付一二三・薄茶の一二三・花の一二三・炭の一二三もあります。

数 茶・・・花月の裏に当たるもので、花月が厳格な式に行われるのに対して煙草盆、菓子器を持ち出し席中を和らげ、連客一同薄茶をいただく趣向です。六名ないし十名位で行います。亭主、札元、目付の役を決め、亭主が人数分の茶を点て、札元が札を扱い、札に当たった人が茶を飲み、人数の多い場合、目付の判断で「おもやい(お申し合わせ)でお願いします。」と声をかけることもあります。

以上の七事のほかに当流では五事一行があります。
五事一行・・・流祖不白が利休忌の折、考案したもので、七事のうち廻り花廻り炭・且座・花月・一二三の五事を一度に行います。

No.205  「本茶」とはどこのお茶?

かつて京都の栂尾(とがのお)山で栽培されていたお茶を、「本茶」と呼びました。この山に庵をかまえていた明恵上人が、栄西禅師からもらった茶の種を植え、日本最初の茶園になったという話に由来します。もっとも日本における茶の栽培は平安時代にさかのぼるので、これは伝説と呼ぶべきでしょう。しかし中世には、この栂尾の茶が最上とされていました。その後、京都では宇治に茶栽培の中心が移っていき、栂尾の茶栽培は下火になっていきました。

No.206  お勧め観光ガイド・・高山寺でお抹茶!

京都市右京区の栂尾山(とがのおさん)にある『高山寺(こうさんじ)』。
創建は奈良時代と伝えるが、実質的な開基(創立者)は、鎌倉時代の明恵である。もともとここにあった神護寺の子院が荒廃した跡に神護寺の文覚の弟子であった明恵が入り寺としたものである。
世界文化遺産にも登録されおり、日本茶発祥の地ともいわれ日本最古の茶園があることでも知られています。
その高山寺でお抹茶がいただけます。
拝観料:800円、お抹茶:600円です。(2020年時)
また高山寺は、鳥獣人物戯画(ちょうじゅうじんぶつぎが)でも有名です。

■鳥獣人物戯画・・・平安後期から鎌倉前期にかけて制作された、京都市右京区の高山寺に伝わる戯画絵巻。全部で4巻からなる絵巻物で、その全長は約44mにも及びますが、そこに描かれたさまざまな戯画が、いったい何を表そうとしたものなのかも判然とはしていません。漫画やアニメのルーツとして高く評価され、日本はもとより、世界的にもその名が知られています。特に有名な甲巻は、うさぎや猫などの動物たちが画面の中を縦横無尽に駆け回り、遊び尽くすという斬新にしてとてもモダンな内容。これが、今から800年も前の平安時代末期に描かれたとは、にわかには信じ難いほどです。国宝。

高山寺で育てた茶の苗木は宇治に移植され全国にひろまったそうです。まさにここが日本茶のルーツということですか!実際の最古の茶園は近くを流れる清滝川の対岸にあったようです。
京都も観光客は、金閣寺や清水寺などのメジャーな場所は修学旅行生や外国人観光客で大変なことになっていますが、小さめなお寺はほとんど貸し切り状態、ゆっくりできるのでおすすめです。
栂尾山(とがのおさん)の高山寺でお抹茶と日本最古の茶園を楽しんでみてはいかがでしょうか。

No.207  京都で「お茶漬けでもどうどす?」と「2杯目のお茶入れましょか?」は、どのような意味=「そろそろお帰りください」

京都のいわれとして、飲食店、特にお酒を出すような店で「お茶漬けでも」と言われたら、それは「そろそろ帰ってほしい」といった意味合いだというものがあります。京都ではお茶漬けは「ぶぶ漬け」と呼ばれています。これは漬物をご飯の上に乗せてお茶をかけたものをさらさらといただくといったものです。果たして本当にそうなのでしょうか。
まず、ぶぶ漬けはもともと京都の食べ物として存在しています。ただ、さっぱりとしたものなので、酒を飲んだあとに最後に食べるといったもののため、それを出したならば、もうおしまいであり、帰ってほしいといった意味合いだと言われています。
落語の噺にあった!この京都のぶぶ漬けにまつわる噺は上方落語にあります。京都の訪問先の家でぶぶ漬けをすすめられた男性が「ちょっとだけ」と返事をしてしまいます。すると、裏で「厚かましい」と言いたい放題だったというものですね。ただ京都では法事をのぞいて、他人を家にまねいてもてなすことはないとみおわれています。そのため、この話自体が、ある程度の事実に基づくようなリアリティのある話ではなかったという可能性もあります。「ぶぶ漬けでも」と言われて、お茶漬けを食べて帰るわけではなく、そろそろ締めましょうかといった話を、まわりくどく言う、遠まわしに伝えるための手段として「京都のぶぶ漬け」の話が生まれたのかも知れません。
これと同じが、「お茶でも入れましょか?」(意味)お茶のお代わりを入れるのも忘れるぐらい、すっかり会話に夢中になっていて、長い時間が経過してしまいましたね・・・。(=もう頼むから早く帰ってください)という真意という事になります。ウソかホント、信じるか信じないではなく、臨機応変にご対応してください。

No.208  日本の茶の始祖「栄西」とは?

栄西は日本茶の茶祖ともいわれます、なお「栄西」の読み方は2通りあり、一般的には「えいさい」と読みますが、栄西が創建した建仁寺(けんにんじ)京都では伝統的に「ようさい」と呼んでいます。
栄西(1141~1215年)は日本のお茶の発展に大きく貢こう献けんした重要な人物です。臨済宗の開祖で、鎌倉時代初期1191年、中国の宋から当時中国のお茶の飲み方だった「抹茶法」を携たずさえて帰国しました。その際、茶の種子を持ち帰り、各地にまいて日本に茶を広める原点としたといわれています。
栄西はもともと比叡山において最澄の興した天台の教えを学びました。27歳のときに宋に留学して天台密教を学び、天台の僧として修行を続けますが、47歳の時にふたたび宋に渡ったとき、臨済宗の禅僧に出会い、禅の修行を行います。
帰国後は日本の禅の発展のため活動しますが、比叡山から激しい弾圧を受けます。幕府の支援で建仁寺を建立しますが、比叡山に配慮し、天台宗と真言宗を兼ねる禅宗の寺とします。天台・密教・禅の三宗兼学の道場として情勢に対応したのです。建仁寺(けんにんじ)はのちには純粋な禅の道場となり現在に至ります。
栄西は旧仏教側からの弾圧に抗して『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)を著します。この書において栄西は、禅宗は天台宗に対立するものではないとして、禅の本質を述べました。加えて戒律を禅の基礎と説くところに栄西の特色があります。
また、天台宗の「四宗合一(ししゅうごういつ)」を説いた最澄の教えのうち、禅が衰退していることを嘆き、禅宗を興すことによって比叡山の教学を復興し、それと同時に国家を守護することができると主張しました。

有名なエピソードに、1211年お茶が健康に良いという内容の日本最初の茶書『喫茶養生記』を著し、1214年、将軍源実朝に献上しました。この時、実朝は二日か酔いで気分が悪かったのですが、栄西が献上したお茶を飲んだところ、一気に治り、実朝は大いに喜びました。お茶の持つ効能を実証しました。

栄西は臨済宗を日本に伝えた「臨済宗」の開祖ですが、臨済の禅を体系化して確立したのは江戸時代の白隠です。白隠は「看話禅(かんなぜん)」(公案禅)の修行体系を確立し、武家の支持を得て一般大衆まで禅を広めました。「看話禅」では「公案」を用いて禅修行を行います。師から与えられた問題の答えを考えながら修行することを「禅問答」といいます。
栄西の弟子の明全(みょうぜん)の弟子であった道元は中国曹洞宗の禅を日本に伝えました。道元の曹洞宗では、公案は用いずにひたすら座り続けることが悟りであるとする「黙照禅(もくしょうぜん)」(只管打坐)を行います。
栄西の臨済宗と、道元の曹洞宗は鎌倉新仏教の代表的な禅の宗派ですが、その修行方法は異なっています。

No.209  お勧め観光ガイド・・千利休切腹の原因となった大徳寺

安土桃山時代の茶人として有名な人物といえば千利休です。千利休は、豊臣秀吉の帰依を受けて茶道を普及させていき、天正15年(1587年)には北野大茶の湯といった一大イベントに深く関わるなど、秀吉との仲も非常によく、政治についても秀吉の良き相談相手でした。ところが、利休は天正19年に秀吉から突如切腹の命を受け、70歳でその生涯に幕を閉じました。
豊臣秀吉は派手好きだったと言われています。東大寺の大仏よりも大きな方広寺の大仏を造ったり、金の茶室を造ったりと財力と権力にまかせて贅沢三昧の生活をしていました。そのような彼の派手好きは、自分が百姓の出身で、幼少期の貧しい暮らしがコンプレックスになっていたと言われています。
他方の千利休は、茶道の中でも簡素な茶の湯をテーマとしていました。この簡素な茶の湯は、江戸時代以降、わび茶と呼ばれるようになります。このように元々性格が異なる二人なので、お互いに理解しえない部分があったものと思われます。
元々、利休は茶頭として織田信長に仕えており、彼の後ろ盾によって茶の湯を広めようとしていました。しかし、信長が本能寺の変で亡くなった後、利休は茶の湯を広めるための後ろ盾を失います。そこで、利休が茶の湯を広めるために次に接近したのが秀吉でした。

利休は、秀吉に仕えてから政治についてもいろいろと秀吉に口を挟むようになってきます。最初の頃は、秀吉も利休の言葉を尊重していました。しかし、秀吉は、次第に利休の言葉を疎ましく感じるようになってきます。また、利休にしても秀吉が造った金の茶室の派手さが自分の茶の湯の精神と食い違っていることに不快感を覚えます。
このように利休と秀吉の間には、いつしか溝ができ、時の経過につれてその溝が広がって行きました。そんな時に事件が起こります。利休は、自宅近くに建つ大徳寺の三門(金毛閣)の造り替えのための援助をします。三門が完成すると大徳寺の住持であった古渓宗陳(こけいそうちん)が、利休に対する感謝の意を表するために利休の木造を造り、それを三門の上に祀りました。それに対して秀吉がひどく怒ります。秀吉の怒りの理由は以下のようなことだと言われています。「高貴な方が通る三門の上に草履をはいた利休の木造を置くということは、高貴な方の頭を踏みつける行為と同じである」そして、天正19年2月28日に千利休は切腹させられたのです。

千利休が切腹させられた理由には、以下の説もあります。
1.石田三成との政治的立場の違い。
2.利休が茶器の売買で暴利をむさぼっていた。
3.利休の娘を秀吉に仕えさせるのを拒否した。
真相は定かではありませんが、これらのことが秀吉の怒りとなって少しずつ蓄積され、ある時点でその蓄積された怒りが爆発したのではないでしょうか。

No.210  お勧め観光ガイド・・建仁寺

「けんにんじ」と読みます、京都府京都市東山区小松町584。京都市東山区にある建仁寺は、禅の教えを伝える京都最古の禅寺です。
建仁寺は、日本に初めて臨済宗を伝えた僧・栄西によって開かれた禅寺です。1202年(建仁2年)に、鎌倉幕府2代将軍の源頼家の援助を受けて、京都における臨済宗の拠点として建立されました。その当時は、天台宗や真言宗の勢力が強かったため、天台・真言・禅の3宗並立だったそうです。
1259年、宋僧の蘭渓道隆が11世住職に付いた際に純粋な禅寺となりました。建立当初の建物は、応仁の乱や度重なる火災によって焼失されています。一時は荒廃したものの、安国寺恵瓊(あんこくじえけい)によって再興。その後は徳川幕府の庇護を受け、制度や学問が整備されます。明治時代になり、政府の宗教政策により派独立、建仁寺は臨済宗建仁寺派の大本山となりました。

国宝にも指定されている「風神雷神図」をはじめ、建仁寺には貴重な文化財が数多くあります。2002年に描かれた報道の双竜など、新たな見どころも加わり、観光客からも注目されている観光スポットです。
境内には、「放生池」と「洗鉢池」という池があります。長方形の形をした洗鉢池は、歴史を感じさせる石垣や木々に囲まれた池です。池の側には、茶にも通じていた栄西の功績をたたえる茶碑、平成の茶園といった見どころがあります。
見逃しがちなスポットとしてご紹介したいのが、境内にある鳥居をくぐった先にある「明星殿」です。祀られている楽大明神は、記憶力増進のご利益があるとされる神様。お堂のすぐ脇にある絵馬掛けには、受験生と思われる人たちの願いが書かれた絵馬が飾られています。丑年生まれ・寅年生まれの守り本尊であるため、該当する方はぜひ立ち寄ってお参りをしましょう。場所は洗鉢池のすぐ隣です。

また方丈では、安土桃山時代から江戸初期にかけて活躍した画家・海北友松の作品を鑑賞できます。襖に墨を使って躍動感ある大きな龍と流れるような雲を描いた「雲竜図」は、見る人を引き付ける迫力です。襖から今にも飛び出してきそうな龍の姿、幻想的な雰囲気を感じさせる雲の描写が秀逸な作品となっています。その他にも、本坊・方丈内には、「山水図」や「竹林七賢図」といった海北友松の作品が展示されています。
重要文化財も選ばれている方丈、その前庭にあたるのが「大雄苑(だいおうえん)」です。七代目小川治兵衛によって作庭された庭の中では珍しい枯山水庭園。巨石や砂、水を使って作られる枯山水庭園は、余分なものを省いた洗練された美しさを感じられます。方丈の縁側に座って、景観豊かな日本庭園を眺めるひと時は、有意義な時間となることでしょう。他の臨済宗のお寺と比べても一際大きい庭園は、名前の通り雄大な庭園です。
方丈にあるもう一つの庭園が「潮音庭(ちょうおんてい)」です。四角い形の庭を囲むように廊下が配置され、吹き抜けのようになっている庭園を様々な角度から鑑賞できます。
〇△ロ乃庭」は、江戸時代の禅僧僧、仙厓義梵の「〇△ロ」掛け軸が元になっている庭です。名前の通り、〇・△・ロの記号を組み合わせて庭が作られています。禅の四大思想(地・水・火・風)の地・火・水を表しているという庭は、現代アートのような斬新さすら感じさせます。

建仁寺の法堂は、仏と法堂(講堂にあたる)を兼ねている建物です。お堂の中には、お寺のご本尊、釈迦如来像が安置されています。建仁寺の中でもひときわ大きな建物は、天井に描かれた大きな龍の絵を求めて多くの人が訪れる人気スポットです。法堂内は有料エリアであるため、方丈や本坊を一回りした後に尋ねるのが良いでしょう。別名「拈華堂(ねんげどう)」とも呼ばれる法堂は、1765年に建てられた歴史ある建築です。
建仁寺観光の大きな目玉の一つに数えられるのが、法堂内の天井に描かれた双竜の絵です。大きな2匹の龍の姿が印象的な「双竜図」は、鎌倉にある建長寺法堂内の「雲竜図」を手掛けた小泉淳作によって描かれました。龍は仏教を守護する八部衆に数えられ「龍神」と言われます。禅寺の本山の多くでは竜が天井に描かれているそうです。水を司る神様でもある龍を描くことで、火災から建物を守るというご利益も兼ねています。
建仁寺の双竜図は、建立800年を記念して2002年に2年の歳月をかけて描かれたもの。畳にすると108畳にもなる大きな天井に、水墨画で描かれた圧巻の龍を眺めることができます。

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