香撰堂本舗 / ワンランク上の味わいを食卓に、静岡産100%深蒸茶匠、特許取得の備長炭入り炭火焙煎茶

改・でしゃばり雑学

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茶に関する(効果効能や生活に役立つ)様ざまな雑学情報を発信しています

No.141   禅語てなあに

お茶の席に掛かっている語。優しい言葉です。もともとは禅の世界で使われていた言葉なんですが、最近はいろんな所で目にするようになりました。ホテルのロビーとか。難しい言葉も多いけど、なんだか安らげる言葉も多いです。

 

No.142   無功徳 ( むくどく ) ?

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します。
どんなに努力しても、どれほど善行を積んでも、それが果報(功徳)を期待したものであってはいけないという意味です。報酬を期待して行動するのは、今すぐやめましょう。
禅宗の祖、達磨(だるま)大師(生没年未詳。5~6世紀の人)と中・梁(りょう)の武帝が問答をした際の、達磨大師の言葉からといわれています。武帝も人々から仏心天子と呼ばれるくらいに仏教への造詣深く、自らも仏典を著すほどで、仏法の興隆へ寄与した方であった。その武帝がインドより大変偉い聖者が来たということを知り、直ちに達磨を宮中へ招き問答に及んだ。
ーー「朕、即位以来、寺を造り、経を写し、僧を渡すこと挙げて記すべからず、何の功徳か有る」達磨応えて曰く「無功徳」ーー
達磨大師がいう「無功徳」とは、たとえ善事善行をなそうとも、あれもした、これもしてやったと果報を求めたり、見返りを求めて行う打算的善行は真の善行ではないと諭したのです。
つまり信心、信仰はご利益を求めて行うものでなく、喜捨奉納も功徳を求めて施すものではなく、真の信仰は、自らの見返りのない無心にして真心からの施し、神仏へ絶対帰依心による祈りであり、施しであるのです。
功徳とは、今でいう報酬やご利益、果報のようなものですが、自分の行いや努力、そのすべては報酬のため、果報のためという人もいます。
仏教には、善因善果(ぜんいんぜんか)、悪因悪果(あくいんあっか)という教えがあります。良い因は良い結果を招き、悪い因は悪い結果を招くというものですが、達磨大師はこのとき梁の武帝に対して、とくに偽善的な善行は、けっして功徳の見返りを期待すべきものではないと諭したのでしょう。
私たちも、すべての行いや生き方に見返りを求めることはやめましょう。打算でものごとを判断したり、偽善的な態度でいると身を滅ぼしかねません。

No.143   生児現成(しょうにげんじょう)?

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します。
(原典】生児の道理知るべし。生児のときは親子並化するか。児の親となるを生児現成と参学するのみならんや。親の児になるときを生児現成の修証なりと参学すべし、究徹すべし。(『正法眼蔵』山水経)
もしかしたらこの言葉の意味を知っておくと、育児に対する心構えが少し和らぐのではないかと思う。肩肘を張って、何もかも完璧にこなして、失敗しないで子どもを育てなければいけないという呪縛から解放される。だからこの言葉は、子を育てている、あるいはこれから育てるすべての親に知っていただきたい禅語でもある。
親と子との関係を考える時、先に親が存在して、そこから子が生まれたと考えるのが通常の思考ではないだろうか。実際、子は母親のお腹から産まれてくるのだから、親がいなければ子が存在しないのは疑いようのない事実である。
ただ、この禅語が言っているのは、それと逆のパターンはどうか、ということ。つまり、子がいなければ、親も存在しないのではないか、と言っているのである。どういうことか。よくよく考えてみれば当たり前の話であるが、子を産む前の親は、親ではない。大人ではあるが、まだ子がいないから親ではない。では、いつ親になるかといえば、それは子が産まれたときである。子が産まれることによって、親ははじめて親となる。つまり親子は同時に誕生するのだ。これは当たり前のことなのだが、ちょっと忘れられがちな視点でもある。何十年と生きてきた大人であっても、子を産んだときにはじめてピカピカの親1年生になる。親は誰でも、何もかもがはじめての新米親からはじまるのである。
親がいるから、子どもがいる。子どもがいるから、親がいる。親子はともに生きる存在で、お互いがお互いの存在によって、今ここに親子として存在している道理を忘れてはいけない。そこを間違うと、変な大人意識が自分を苦しめることになってしまう。親子はどちらも同じ時期に、同じ1年生から始まるのである。

No.144 諸悪莫作(しょあくまくさ)の解釈 ~七仏通誡偈は簡単そうで奥が深い?~

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します。
「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」(読み:しょあくまくさ、しゅぜんぶぎょう、じじょうごい、ぜしょぶっきょう)(意味:諸々の悪をなさず、諸々の善いことを行い、自ら心を浄める、是れ諸仏の教えなり)という言葉で、七仏通戒偈(しちぶつつうかいげ)と言われています。
法句経という釈迦直説の教えに一番近い古いお経にも出てくる有名な言葉です。この言葉には唐の白居易(白楽天)と道林禅師の逸話があり、道元禅師も「正法眼蔵」の中で以下のように取り上げています。
---白居易が道林禅師に参禅した。ある時、「仏法の大意とはいかなるものか」と問うた、道林は「諸悪莫作 衆善奉行」と答えた。白居易は「そんなことなら、三歳の童子でも言えること」というと、道林禅師は「たとえ三歳の童子が言えたとしても、八十歳の老翁でも行い難し」と答え、白居易は礼拝して去った。---
以上のようなお話しです。分かっていることと、実際に行うこととは別。そしてそれが簡単で当たり前であればあるほど、人はついおろそかにしてしまいます。悪いことをせず、善いことをせよ。あまりにも当たり前すぎて、気が抜けてしまうほどですが、この当たり前すぎるほど当たり前のことを、常に心がけ、常に行い続ける。そこに仏教つまり、仏の道があるということだと思います。
真実は日常の中にあります。しかしその真実は、実際に行われなければ、真実が真実になりません。禅は、仏法(真実)を求める者の、まさに今現在のありようを突き詰めて問いかけて来ます。言葉ではない、今現におまえはどうなのか? おまえは何をしているのか?言葉ではなく、実行が大切ということ。私たちは日々年を重ねます、どうぞ日常の一歩一歩を大切にお過ごし頂きたいと思います。

No.145  無事是貴人(ぶじこれきにん)?

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します。
『臨済録』にある有名な語です。歳末が近づくと、どこの茶席にもこの語が掛かります。この一年間、たいした災難にも遭遇することなく、無事安泰に暮らせたという喜びと感謝の念を表わすと同時に、師走(しわす)といわれるほど忙しい年の瀬であっても、決して足もとを乱すことなく、無事に正月を迎えられるようにと祈って、この語を重用します。
しかし、禅語としての「無事是れ貴人」の意は少々違います。無事とは、平穏無事の無事でもなく、また、何もせずにブラブラすることでもありません。無事とは、仏や悟り、道の完成を他に求めない心をいいます。貴人とは「貴族」の貴ではなく、貴ぶべき人、すなわち仏であり、悟りであり、安心であり、道の完成を意味します。私たちの心の奥底には、生まれながらにして仏と寸分違(たが)わぬ純粋な人間性、仏になる資質ともいうべき仏性(ぶっしょう)というものがあります。それを発見し、自分のものとすることが禅の修行であり、仏になることであり、悟りを得るということです。私たちは、えてしてそれを外に求めてウロウロするのが現実です。
「求心(ぐしん)歇(や)む処(ところ)、即(すなわ)ち無事(ぶじ)」と、臨済禅師は喝破(かっぱ)します。求める心があるうちは無事ではありません。「放てば手に満てり」という言葉がありますが、「求心歇む処」が無事であるのです。その無事が、そのまま貴人です。「但(た)だ造作(ぞうさ)すること莫(な)かれ、祇(た)だ是れ平常(びょうじょう)なれ」と、臨済禅師は無事を詳解します。「面倒くさい」「むずかしい」の反対語に「造作(ぞうさ)なく」という言葉があります。当然のことを造作なく当然にやることが平常であり、無事というわけです。いかなる境界(きょうがい)に置かれようとも、見るがまま、聞くがまま、あるがままに、すべてを造作なく処置して行くことができる人が、「無事是れ貴人」というべきです。
今日の池ノ坊流の華道を創立した池坊専応(せんのう)は、あるとき、千利休の茶の師である武野(たけの)紹鴎(じょうおう)に依頼されて花を活けます。あまりの見事さに感心した紹鴎は質(ただ)します。「あなたは、どんな心境でこの花をお活けになりましたか」専応は答えます。「いろいろの千草にまじる沢辺かな――という句を頭に描いて花を活けました」沢辺に咲き乱れるさまざまの草花には、美しく見せたいとか、目立ちたいとかいうはからいは微塵もありません。ただ、無心に一生懸命に咲いているだけです。専応も花活(い)けに向かって上手に活けようと意識するわけでもなく、紹鴎を感心させようと小細工を弄(ろう)するわけでもありません。造作なく、すなおに、「いろいろの千草にまじる沢辺かな」の句を想い描いて、花を一本一本挿していっただけです。専応もまた、無事底の一人であるのです。

No.146   照顧脚下(しょうこきゃっか)ってどういう意味?

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します
日常玄関や下駄箱などで目に触れる事があるとおもいますが、真理はそんな浅はかな事ではありません。いまから九百年も前の人、中国は宋の時代、臨済宗中興の祖、五祖法演禅師(ごそほうえんぜんじ)がある晩、三人の高弟とともに寺に帰る途中、どうしたことか提灯の火が突然消えてしまった。すると法演禅師、即座に三人の弟子の対し、「この場に臨んで各自一句を述べてみよ」 と命じた。つまり暗闇をゆくには灯火が何よりの頼り。その頼りの灯火が消えた。さあ「どうするか?」というのである。師匠の命に応じ、三人三様の答を出したが、なかで克勤(こくごん)は、「看脚下」と答え師匠を感服させた。暗闇に灯火を失ったような人生の悲劇に遭遇したとき、人は多く右往左往してこれを見失い、占いや苦しいときの神頼みに走り、あるいは悲劇のドン底に沈淪しがちなものだが、道は近きにあり、汝自身に向かって求めよと教えるのが、「看脚下!」の一語である。また、「あなた自身から離れたどこか遠いところに真理を求めるのではなく、あなたの足元にこそ真理はある。その真理の上にあなたの実存がある。あなたの足場を大切にせよ」ということでありましょう。その意味で「脚下照顧」とは、「汝自身を知れ」「汝自身を深く掘り下げよ」ということでもあります 。

No.147   紅炉一点雪(こうろいってんのゆき)ってどういう意味?

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します
鵬雲斎お家元は、この句について、「碧巌録」六十九則の中から「荊棘林(けいきょくりん)を透る衲僧家(のうそうけ)は紅炉上一点の雪の如し」を引かれて、よく説かれます。荊棘林は、いばらの林それが修行の行く手を遮っている悟りに至るには、艱難辛苦に耐えて、その道をきり開いていかなければならない。それにしても、修行に修行を積んで、悟りに達した真の禅僧のはたらきというものは、真っ赤に燃えた炉の上に落ちた一つまみの雪のようなもので、瞬時にして溶けてしまい、少しの跡かたもとどめない、ということです。私たちの日常の行為というものは、とかく分別、執着の心を起こし、なにかを期待して、いつまでもこだわり考え込むことが非常に多いのです。ところが、修行を積んだ偉い禅僧というものは、なにか事が起こっても、その場その場におぴて対処し、いつまでも糸を引くようなことはしないのです。どんなときでも、いかなることに出遭っても、紅炉上の一点の雪のように、跡かたもなく消え去り、自由自在なはたらきをするということで、この教えに深く学ばなければならないと思います。

No.148  なぞかけ。「お茶 」とかけまして、「 オリンピック出場選手」ととく、その心は?

勝て!金!(カテキン)

「お茶」とかけて「大ピンチ」ととく、その心は「どちらも万事休す(急須)です」。
「お茶」とかけて 「家を新築する」ととく、 その心は「 柱が立っただけで嬉しいです」。

お口直しの意味合いです、すいません、御後が宜しいようで。

No.149  日々是好日(にちにちこれこうにち)ってどういう意味

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します。
「新約聖書」のマタイ伝の中に「明日のことは思いわずらうな、明日のことは明日自身が思いわずらうであろう。一日の苦労は、その日一日だけで充分である」と教えています。今日ただ今の、この一日の貴さに生かされているよろこびを感じ、精一杯大切に生きていくことを示されているのでしょう。
私たちは心がけ次第で、その日をよくもし、無駄にもするのです。その日、その人の心意気次第で、その日その日が「好日」になるのです。この字句の表面だけを見ますと、毎日が好い日であるということですが、古人もこの一語は容易ならぬ一語であるといっています。
私どもには悲しみ、苦しみ、楽しみなど、いろいろなことがあります。そのときは、その事に徹底することが大事だと思います。そして好し悪しに対する執着が全くなくなってこそ、初めて「日々好日」ということになろうと思います。

No.150  「回光返照」(えこうへんしょう)を習慣にする!

第一の茶道具と言われている掛物、茶会でよく目にする言葉を紹介します。
「回光返照」とは、原因を外にばかり求めず、自らを省みてみよという戒めの言葉です。
最近、私はこの時間が無駄なのでは?と考えています。外の世界にばかり意識を向けていると自分との対話の時間が減ることに気づいたのです。今よりはるかに情報が少なかった時代でも人は外の世界に相当意識を向けていました。昔の人たちも「回光返照」と言う言葉によって自分のダメな行動を修正していましたがこの禅語は情報化社会に生きる現代人に向けられた言葉のようです。
一日一回、「自分はどうしたい?何がしたい?」と質問して自分に向き合うことを習慣にしましょう!
自分の心が望んでいるものを明らかにすることで本当にやりたいことがわかりその時間を確保するようになります。
外の世界にばかり目が向いていると思ったら「回光返照」を思い出し、自分の内なる声と対話しましょう。

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