香撰堂本舗 / ワンランク上の味わいを食卓に、静岡産100%深蒸茶匠、特許取得の備長炭入り炭火焙煎茶

改・でしゃばり雑学

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茶に関する(効果効能や生活に役立つ)様ざまな雑学情報を発信しています

No.181  煎茶、番茶、ほうじ茶の違いとは?

煎茶とは若葉を摘んだ一番茶,二番茶,三番茶等をいいます。また玉露は最上級の煎茶です。
番茶は夏以降に収穫した茶葉(三番茶・四番茶)、次期の栽培に向けて枝を整形したときの茶葉(秋冬番茶)を原料とした下級煎茶です、カフェインの含有量は少ないのが特徴です。
ほうじ茶は番茶を焙じて香ばしくしたものです、子供やお年寄りの苦味の苦手な方にも飲みやすいお茶です。

No.182  茶摘みの仕方

お茶の種類によって“摘み方”はいろいろあります。また、手で摘む方法と機械を使う方法があります。煎茶の上級品などでは、“一芯二葉”といって茶の新芽が4~5枚育ったところの一番先の2枚の葉までを手で摘みす。また、お茶の木は生命力が強いので、一度摘んでもまた、芽が伸びてきます。そのために、年2~4回の収穫ができるのです。順番に「一番茶」「ニ番茶」「三番茶」「四番茶」といわれています。

No.183  お茶を「上がり」と云う理由?

語源は遊郭の廓言葉です。昔、お茶の葉は粗製のままのものを買い、自家の茶臼で挽いていました。このお茶を挽く仕事は、花柳界ではその日売れ残った芸者の仕事でした。 そこで売れ残りを「お茶ぴき」と言うようになり、お呼びのかかった芸者は、「おあがりさん」と言ってお座敷にあがることができました。このことから「お茶」という言葉は、売れ残りを指す縁起の悪い言葉であると捉えられたので、お茶のことを縁起を担いで、「あがり」というようになりました。なお、今来たばかりのお客様に出すお茶は「おでばな」帰りの客に出すお茶を、「あがり」というのが正解です。

No.184  緑茶と煎茶の違いとは

お問い合わせの中でも多いご質問のひとつです。煎茶は緑茶に含まれます。緑茶とは蒸したお茶全般を指します。緑茶は、煎茶.玉露.ほうじ茶.玄米茶.抹茶.芽茶.粉茶.茎茶.番茶など、様々なお茶をまとめた呼び名を指します。つまり煎茶は緑茶の中のひとつの種類のことです。売り場で「緑茶下さい」て言われると戸惑いますが「煎茶のことだな」とお出しします。
またお手元のお茶袋の裏側をご覧下さい、食品表示で、名称が煎茶、原材料名が緑茶となっている事でしょう。

No.185  お茶はなぜ緑の色がでるの?

蒸し製法で作られるからです。これは生の茶葉を摘んで、すぐに蒸気で蒸して熱を加え、揉んで乾燥させる方法(不発酵茶)です。この方法は葉にふくまれるタンニンという成分が酸化されなくて、葉緑素も分解されないために、もともとの緑の色が出てきます。一般煎茶は黄色の色合いです。
一方で、紅茶は、生の葉を紅く酸化するまでしおれさせてから乾燥させる方法(発酵茶)なので紅くなり、またウーロン茶は半分散化させてから熱を加える方法(半発酵茶)なので茶色になります。

No.186  静岡県が日本一になった理由 ①

江戸時代の古文書によると。江戸のはじめ頃には安倍川流域で確かにお茶がつくられていたと示めされています。徳川家康公が大御所として駿府城に在城していた頃、安倍川奥地から駿府城に抹茶の御用茶をおさめたというもの。当時のお茶生産の主流を占めていた宇治にも匹敵する良質産地として認められていました。徳川家康が駿府城にいた頃は、お茶会が政治の場として大きな意味を持っていました。。家康の死後、駿府の政治的な役割がすっかり衰えて抹茶の需要がなくなるとともに、宇治が独占的に生産するようになって、静岡の抹茶製造技術は絶えてしまいます。
その後1738年京都に永谷宗円という人が登場します。彼は蒸して揉まずに乾燥させる抹茶の技術と、釜で炒ってからムシロの上で揉む番茶の術を合体させ、生葉を蒸して焙炉の上で両手を使って丁寧に揉んで仕上げる、青製と呼ばれる製茶技術を完成させます。このお茶の評判は江戸の問屋を通じてたちまち全国に広まり、やがて静岡県でも宇治から指導者を招いて技術導入に努めることになります。当時世間では抹茶を使用する従来の茶道に対して、もっと気軽に雰囲気を楽しみたいという煎茶道が盛んになっていました。煎茶は有力な支持者を得、商品として大きく発展していきます。江戸の問屋を軸に新しい煎茶の製法が次第に広まり始めた頃、日本が長い鎖国の夢から覚め外国貿易が始まります。そして生糸に次いでお茶が輸出の花形になりました。茶は一気に日本の戦略商品に躍り出したのです。

No.187  静岡県が日本一になった理由 ②

似たような気候、地形の場所は他にもかかわらず。静岡県が日本一の茶所となった理由は。江戸時代に歌われた「越すに越されぬ大井川」に関係しています。江戸時代大井川は交通の名所。徳川幕府が江戸防衛のために、街道筋の大きな川には橋を架けなかったのです。享保年間の記録を見ると、大井川は川幅1454メートルで、両側の金谷宿と島田宿には川会所があり、川越えに従事するものは川越え人足、雑役夫合わせて1000人以上いたと書かれています。川越えは、時代劇でご存知の通り、人足が旅人を担いで渡るもの。したがって、水位などに左右される、つまり交通の難所といわれていました。さて、この大井川の川越え制度も明治の新時代にもなるとその前近代性が改められ、明治4年には人足による川越えが廃止され、渡し舟が登場します。と、なると失業するのは川越え人足たち。1000人以上におよぶこの人たちは、ちょうどいい気候の土地だからと、そこでお茶の栽培を始めたのです。それが静岡県というわけ。「風が吹けば桶屋が儲かる」みたいな話です。

No.188  静岡県が日本一になった理由 ③

慶応4年(1868年)、大政を奉還した徳川幕府15代将軍徳川慶喜と徳川家を継いだ家達が駿府(現静岡市)に到着しました。その後、版籍奉還により徳川家達が藩知事になり、護衛をしていた精鋭隊(後の新番組)は任務と職を失います。失業した家臣の生活保障のため、新たな就業の場として帰農し牧之原に入植し大規模開拓したのが、現在静岡茶の量質ともに発展に大きく貢献しています。なお勝海舟、山岡鉄舟、関口隆吉、大久保利通、新番組の隊長・中條景昭、副隊長の大草高重、松岡万らの人々が大きく関わっています。
お茶に注目した理由は当時、すでにお茶が輸出品として重要であり、静岡県内に川根や森などの茶産地が形成され、静岡市に茶問屋があった事や、入植に関わった人々が、お茶への関心や知識を持っていたと思われます。

No.189  静岡県が日本一になった理由 ④

静岡市中心部の北西よりに「茶町」という町があります。この付近は江戸の頃からその名の通り製茶問屋の街として栄えてきました。そして明治の終わり頃に大発展の時を迎えます。そのきっかけは1899年、清水港が国際貿易港として開港したことでした。清水港はその背後に静岡県という大産地を持ち、そのお茶が集まる静岡市にも近く、茶貿易にはうってつけの港。やがて静岡市の茶町周辺には。製茶問屋によって輸出茶の再製工場が続々と建てられるようになりました、再製とは、お茶を輸出する際に、茶葉が長期の保存にたえられるよう再度火入れして乾燥・整形したり、安定供給するために品質のランクごとにブレンドしたりすること。再製作業は清水港開港以前、主に横浜や神戸など古くからの国際貿易港周辺で行っていましたが、その役割は次第に静岡市に集中するようになりました。横浜や神戸にあった外国商社も続々と静岡市に集まり、競うように再製工場を構えたのです。また、輸出用の茶袋、茶箱、茶缶などをつくる茶関連業者や、製茶機械のメーカーなども茶貿易とともに発展していきます。さらには茶園開拓も日本平周辺で進みました。こうして静岡市はいちだんとお茶の街の色彩を濃くしていきました。その結果、「静岡茶」は国際ブランドとして認められるようになりました。清水港を舞台に花開いた茶貿易は、ロシアやアメリカなどにもルートを拡げましたが、戦後になって日本経済が豊かになるにつれ、次第に国内消費に移り変わっていきました。その間、茶業者が業界をあげてお茶の品質向上に取組んできたことも、「お茶はやっぱり静岡」といわれる程になった一因です。

No.190  1日2杯以上飲む人は記憶力衰えにくい.科学的に立証

緑茶を1日2杯以上飲む人は、週3杯以下の人に比べて認知障害になりにくい傾向にあることが、東北大大学院医学系研究科の調査でわかった。緑茶に含まれるカテキンに、活性酸素の働きを抑えたり、神経細胞が傷つくのを防いだりする働きがあることは、動物実験などで確認されていますが、人間を対象に効果が裏付けられたには初めての事です。

 

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